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2006年 01月 15日
地下鉄は暗い中に光が流れるチューブをひたすら進む。
ガラスには半透明の自分が映し出される。 景色はなく地下鉄の中はいつも、どこへ行くのかわからないような時間が流れる。 気になることがあった。 奇妙な関係が続いている、彼女のこと。 恋愛感情がある訳ではない。 なのに、彼女が自分の家に住んでいる。 知り合いには誰にも知られていないと思うが、単に遠慮して訊ねて来ないだけなのかも知れない。 だが、今気になるのはそんなことではなかった。 気になること、それは、それまで知らなかった彼女の癖。 彼女は唇を噛む。 乾いた唇の皮膚を無理に引き剥がす。 見ているこちらまで痛くなって来るような癖なのだが、彼女は血が出るまで必ず続ける。 その一連の動作が、自分には気になってしまうことだった。 指先についた赤いものをほっとしたように確認する彼女。 何故、痛みを求めるのか。 何故、ひたすら血が出るまで唇の皮を剥き続けるのか。 わからない。 彼女に、痛くないのかと聞いたことがある。 もちろん痛いのだそうだ。 「やめられない。本当はやめたいと思っているのに、どうしても止められない。 血の味は嫌いなの。なのに、どうして止められないんだろうね。 これでも、爪を噛む癖はやめられたのよ。ストッキングが伝線してしまうから…。」 少し血のついた人さし指を拭きながら、無表情にぽつぽつと話す彼女の横顔は、どこか不安げで、言い様のない重い過去のようなものを背負っているように思えた。 自分は知っている。 爪を噛むのは、子どもの時に親との関係が上手く行っていなかった人に多いのだそうだ。 ふざけたり、バカ話をしながら何も考えずに子ども時代を過ごした自分とは、明らかに違う子ども時代を過ごしたんだろう。 まだほんの小さな時から今日まで、彼女は行きづらい道を歩いていたのかも知れない。 仕事の時に見せるあの楽しそうな笑顔よりも、自分の家で少し困ったような笑みを浮かべる方が、彼女の本当の笑顔に近いような気がした。 まだ、ちゃんと笑えない理由があるんだろう。 おそらく彼女自身も、そんなことに気付いていないのかも知れないけれど…。 2005年 10月 15日
閑散としている。
さすがは男の家といったところか。 無駄なものがないので、散らかる訳もない。 この家の主が旅に出てしまったので、私は今、この家にたった独り。 しかも主は数日間は戻って来ないという。 これは又とないチャンスかも知れない。 この家の居間には、大きな戸棚が二つあって、この家に来た時から一度も私は中を見たことがなかった。 もちろん、彼の部屋の家具を開けてみたことは一度もないのだけれど、居間の家具なのに、彼が開けているところも見たことがなかった。 一体この戸棚には何が入っているんだろう。 常々、そう思っていた。 ちょっとだけ、見てもいい…? 取ったりしないから。ね。 何が出て来ても、誰にもいわないから。ね。 こういうことでドキドキするのは、結構好きだ。 私は取っ手に手を掛け、そっと手前に引いた。 目の前に現れたのは、いわゆる民芸品の類だった。 ちいさな石のようなものから、何に使うのか分からない、妙な形をした道具のようなものまで様々で、天井までの高さがある戸棚の半分以上を占めている。 その中に、私はとても懐かしいものを見つけた。 「おなじだ……。」 まだ幼稚園へいっていた頃、旅行好きだった叔母がくれた、ビーズでできた緑色の鳥のキーホルダー。 叔母はそのキーホルダーをくれる時、私に何か色々なことを話してくれたのに、私にはその意味の半分すら理解できなかった。 そして、その実在するという緑色の鳥の名前も覚えられなかった。 あぁ、なんて懐かしいんだろう。彼は、この鳥を見たんだろうか。 この鳥は一体、どこの国にいるんだろう。 彼が帰って来たら、聞いてみよう。この棚のこと、このキーホルダーのこと、他の分からない民芸品のこと…。 足元に近い段には、個人旅行向けのガイドブックがずらりと並んでいた。 古いものは、1980年代とあるから、きっと彼はその頃から海外へ連れていってもらっていたのだろう。 では彼が1人で旅をし始めたのは、一体いつからなんだろう。 どうして1人で旅をしようと思ったのだろう。 私は今までになく、彼に話を聞いてみたいと思った。 口数の少ない彼のことだから、素直にいろいろ教えてくれることは期待できないのかも知れないけれど。 私はもう一度、棚全体を見渡してから、大きなその扉を閉めた。 居間はまた元の殺風景な部屋に戻った。 # by tabinomichi | 2005-10-15 15:18
2005年 08月 28日
私は旅が好きだと思う。だけど、バックパッカーのように世界中を歩き回ることはない。私にとって旅は、いつも苦痛の連続だからだ。
旅が楽しいという感覚が、実はよく分からない。 いままで海外へ数回、国内へは毎年数回出掛けているけれど、楽しいから行くのではないような気がしてならない。 行かなくてはいけない、いつもそんな気がする。 それも、今行かなくてはいけない、そう追い立てられるような感覚で旅に出ていくことが多い。 これは友人と行く旅でも同じことだ。 誰にも強制される訳ではないのに、何故なのか自分でも分からない。 基本的にインドアな性格の私は、チケットの手配、宿の手配が総て面倒だ。 古くなった靴を買い替えるためにデパートへ出かけることすら、億劫で先に延ばしてしまう程なのだから。 私にとって、例えば大手の旅行代理店へ行くことも当然大きな関門だ。 列車の旅なら代理店を頼ることもないが、そういえば飛行機の旅を自力で手配したことがなかった。 しかし彼は違う。 見ず知らずの、または身近な人かも知れない人の旅行記を読み、ふらりと航空会社のサイトへ移動する。 そして休みが取れそうな日を入力して、空きがあるかを検索する。 さらに当然のように予約する。 それからまた行き先の国の旅行記を探し出し、安宿の情報を集めはじめる。 最後に仕事が休めそうかを確認して、休めたら旅の支度を始める。 この間、僅か24時間。 出発時に宿が決まっていることは少ない。現地で探すからいいんだと彼は言う。 私には全く分からない感覚だ。 いや、もしかしたら、遊び過ぎて日付けの変わった深夜の紀尾井町を歩きながら、ホテルに泊まりたいと思う感覚に似ているのかも知れない。 そんなことを言ったら、彼は嫌な顔をして否定しそうだけれど。 そしてたぶんこんなことを言うのかも知れない。 「やっぱり、遊んでいる人なんですね」 突然男の家に転がり込んだのだから、そんなことを言われても仕方がないのかも知れない。しかし事実は違う。深夜の紀尾井町を歩いたのは職場の同僚たちと飲んで中退ができなかった帰りだし、当然家には帰ったし、彼の家に転がり込んだのは、唯一一人暮らししている女友達の家にはフィアンセが来ていたからだ。 そして居続けているのは、彼が宿の主人のような対応をしてくれているからだ。 そして彼が「遊び人」と判断基準にしている私の外見も、先祖代々受け継いだものだから、自分ではどうしようもない。化粧はほとんどしていない。服は顔に似合うものを着ているつもりなまでだ。 私と言う人物は、外見と内面のギャップが大きいようで、方々から揺るぎない誤解と勘違いで形作られている。 彼は知らない。 # by tabinomichi | 2005-08-28 19:45
2005年 08月 28日
随分前の職場の飲み会の時に、旅に出るきっかけについて聞いたことがあった。
「いつも旅に出たいと思っているから、仕事をやりくりして休みが取れそうな時は…行くようにしているんだ。」 毎日スーツを着て、どちらかと言うと真面目にバリバリ仕事をしている印象だったので 、その答えは私にとって少し意外なものだった。 彼はどこにでもいるような、普通のサラリーマンだ。 少し流行りのラインのスーツを着て、短く刈った髪が似合っている。 けれど、アウトドア好きに共通するような陽に灼けた肌ということもないし、体を鍛えていそうな体格でもない。どちらかといえば体格は貧相だ。 「いつも旅に出たいと思って生活してるの?」 「もしかしたら、仕事の事よりも…強くそう思っているのかも。」 彼はそう言って、残り少なくなったコップの中のビールを一気に飲み干した。 その時の私は、その答えがあまりに意外過ぎてそれ以上の質問をすることができなかった。 よく考えれば、どんなところへ行きたいのかとか、もっとその場にふさわしいような質問があったような気はする。だけど、その時の彼は旅をした場所の事とかそんなことではなく、何故自分が旅をするのかとか、生きる目的とか、そんな真剣な話をしそうな目をしていた。 私が社会人になってから必至に習得した、暗い話を無理矢理明るく笑い茶化す術は、彼には相応しくないように思えた。 彼とは、あまり楽しくは飲めないのかも…。 その時は、そう思った。 そして今もまだ、彼とは笑い転げるような酒を飲んだことはないままだ。 # by tabinomichi | 2005-08-28 14:42
2005年 08月 27日
ようやく薄明るくなって来た街は、空気がキンと澄んでいて、その緊張に包まれて僕と僕の荷物は歩く。
この汚くて冷たい街を歩く自分も、時折すれ違う知らない人も、早朝の時間を共有する同志のようにも思えて来てしまう。 日常の昼間には味わわない、不思議な感覚。 旅の始まりに早朝や深夜を選ぶのはいつも、そんな空気を吸いたいからなのかも知れない。 2005年 08月 27日
それから2日経った。
あれからの私たちは、残業や同僚との飲み会などで顔をあわせることが少なくて、旅の話はしていなかった。 いつも朝早くがたがたと音をたてて支度を始める彼が、今日は妙に静かだ。 しん、と静まり返った平家の一軒家は、どことなく不安な感じがする。 そういえば人の気配が…。 もしかしてもう、行った、の? 部屋を出てダイニングへ行くと、焦茶色のテーブルの上のメモが目に入った。 こんなものがあると言うことは、つまりそういうことなのだろう。 手紙は朝の挨拶から始まっていた。 おはようございます。 行き先は南アフリカです。 帰りは7日の予定です。 では、行って来ます。 独りならおそらく書かないだろう小さなメモが、いまは何故か愛しく思えた。 宿泊先も、便名も、何も書かれていないのに。 私はそのメモをぼんやりと眺めながら、アフリカへ向かう彼の無事を祈ってみる。 足元の屑篭には、パンの空袋が一つ入っていた。 # by tabinomichi | 2005-08-27 12:14
2005年 08月 22日
テーブルの上に、アフリカの個人旅行のガイドが置いてある。
さっきまではなかったから、彼が今日買って来たのだろう。 「アフリカ、行くの?」 彼の味噌汁は味が薄い。 「うん…今の所はね。」 曖昧な返事をしているけれど、昨晩長時間パソコンに向かってなにに熱中していたから、おそらくもう航空券くらいは取ってあるのだろう。 「アフリカに、何を見に行くの?」 黒焦げたオレンジ色の魚がボソリとくずれる。 「地平線かな。」 前にもカナダへ行くと聞いた時に、同じ質問をした事があった。 その時はバンフへ行きたいと言っていた。 彼の旅の目的は、いつもだいたい一つくらいしかない。 効率の悪い旅をしながら、だらだらと歩き回るのが好きなんだと言う。 私には、そういったスタイルの旅はよく分からない。 今まで、した事がないからかも知れない。 「アフリカって、結構高いんでしょ?」 お粥になれそうなご飯をすくい上げる。 「まぁ、そうだけど…」 「だけど?」 「行きたい所だから。」 「お休みとれるの?」 「まぁ、なんとか。」 食費、家賃、光熱費、ケータイと、旅費。 彼のお財布はこんな感じでできているみたいだ。 仕事、実家、自分の家、弟と弟の嫁、海外旅行。 私が知っている彼の世界は、海外旅行をしているのに狭いような気がする。 その後も自分の作った料理を美味しいとも不味いとも言わず(相当不味い筈なのだが)、私の質問以外に話す事はあまりない。 聞くとアフリカ行きは今回が初めてだと言う。 彼は頭の中でもう、相当遠くへ旅行しているようだった。 こんな日の夜はとても早い。 夜9時頃にはもう彼の部屋の電気が消えていた。 # by tabinomichi | 2005-08-22 21:11
2005年 08月 22日
まるで後をつけて来たかのような僅かな時間差で、この家の主が帰って来た。
「ただいま」 前に聞いたところによると、彼は1人の時もただいま、と言うそうだ。 特に私に向けて言っている訳ではなさそうだと思う。 でも私は答える。 「おかえりなさい」 居候が尊重する事と言ったら、挨拶くらいしかないような気がするからだ。 スーパーのビニール袋の音がする。 絵に書いたように袋の端からねぎが飛び出ている。 この家の食事は、彼が作る。私は作らない。 いや、作れない。 私は料理が嫌いではない。むしろ、実家では料理ができなくてストレスがたまっていた。今回の家出とそれは、無関係の話ではなかった。 作れない理由は、彼の信念。彼の基準。彼の幻想。 「ご飯を作って欲しいのは、お嫁さんだから。」 しばらく彼女もいない男が、古風な夢を見ている。と、私は思う。 しかしこれは或いは本音ではないかもしれない。 理由は、嫁と言う立場に自分がいないから、面白くないだけなのかも知れない。 居もしないお館様の妻に、私は嫉妬する。 私の嫉妬は、妻と言う立場に対してのものではない。 好きな料理を作れる立場と言う、それに対するもの。 ただそれだけ。 # by tabinomichi | 2005-08-22 20:40
2005年 08月 22日
合鍵は持っている。
だけど居候の私は、まずベルを鳴らす事にしている。 返事があれば鍵を開けて入る。 彼がいれば、「お邪魔します」と言うようにしている。 いなければ何も言わずに鍵を開けて入るまでだ。 大して変わらない。 リリン。 この家のベルは古い黒電話のような音がする。 しばらくしても返事がないので、何も言わずにドアの鍵を差し込む。 灯りのない玄関に、それでも私の影が映る。 焦茶色の木の床は、寂しい夕陽がさす部屋を一層寂しく輝かせている。 あぁ、男の一人暮らしって、なんだか侘びしい。 と、お気楽な私は思う。 # by tabinomichi | 2005-08-22 20:23
2005年 08月 22日
私は今日も彼の部屋に行く。
職場から帰る道はもうすっかり覚えた。 もうしばらくここに住んでいるようなものだから、帰る、というような気持ちになっている。 だけれど、彼とはいわゆる同棲しているような雰囲気はない。 寝室も別々。 もちろん私はただの居候。 私のほんとうの住まいは実家だ。 少し前にいづらくなって出て来てしまった。 イライラする周期だったのかも知れない。どんな女にも、こういう時期は必ず毎月巡ってくる。だけどどんな笑顔でも作れる。女ってのは結構耐えられるものだ。 だけど、こじれた家庭ほどいづらい場所もないような気がする。 彼は妙に時代がかったような事を言う割りに、あっさり私を部屋に入れてくれた。 そして使われていない部屋を貸してくれている。 「僕を尊重してくれるならそれでいいから。」 尊重って何だろう。 意味するところもよくわからないまま頷いた。 さすがに都会の夜を宿を探して歩くのは心細い。ホテルだってバカにならない。 NOと言われなかった事だけでも感謝した。 それに、いきなり抱きつかれたり気まずい雰囲気が漂ったりすることはなかった。 誰しもがドラマのような男や女をやっている訳ではない。 同じ歳で、同じ会社で…思ったより彼との共通項は少ない気がする。 # by tabinomichi | 2005-08-22 00:10
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